小林
和夫
<本論文は、1998年6月7日
(日)に行われた神奈川教区信徒学校で講演されたものであり、「現代にホーリネス信仰を問う−聖書とホーリネス信仰」とのテーマで、私どものホーリネス信仰の土台としての聖書信仰について語られたものである。(編集者)>
わたしたちが教会に来てみますと、カトリック教会とは違いまして、イエスさまやマリヤの像が飾ってあったりしないわけです。そういうものを手掛かりに、わたしたちは信仰を持つのではなくて、プロテスタント教会の根拠は神のみことばである聖書です。聖書を手掛かりに神さまを信じるのというのいうのが、わたしたちの信仰なのです。「信じます」と言ったところで、聖書のみことばをしっかりと心に打ち込んでいただいておりませんと、信仰の根拠を失ってしまうと思うのです。聖書とは神のことばであるということは、皆さん既に知っておられると思いますが、今日はそのことを少し専門的に、組織的に学んでみたいと思います。
テモテへの第二の手紙第3章15−17節に、聖書とは何かについての聖書の自己主張を聞くことができます。誰かが「聖書とはこういうものだよ」と言ったのではなくて、聖書が自分で聖書とは何かと言っているのがここなのです。まず16節に「聖書は、全て神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」とあります。これが聖書の自己主張です。自己紹介と言ってもいいでしょう。
聖書はその本質から言えば、神の霊感によって書かれた神のことばです。なぜ聖書が神のことばかと言いますと、16節に「聖書はすべて神の霊感によって書かれた」とあります。神さまが示して下さった啓示を間違うことなく、足りないところなく、これを正しく書き表すことのために、聖書の原著者たちに与えられた聖霊の特別な働き、これを霊感と言うのです。ですからここで「聖書は、全て神の霊感を受けて書かれ」ていると言いましても、普通にわたしたちが世の中で使うような、あるいは宗教の世界で使うような霊感ということと聖書の霊感は区別しなければなりません。詩人や芸術家が「霊感を受けた」と言うときの霊感とは違います。聖書の霊感と言うときに、聖書のオリジナルな原著者たちに限って与えられた聖霊の特別な働きである、それがプロテスタンティズムが堅く持っている霊感ということの意味なのです。ですからその霊感によって聖書は神のことばであると言うことができるのです。
一方、聖書は人間が書いた人間の言葉ではないかと言いますが、確かにそうです。しかしこれを書いた人たちは神さまから選ばれて、神さまの示すことを、間違いなく、足りないところがないように書いたのです。聖書は人間の言葉で書いてあります。旧約聖書原典はヘブル語と、アラム語というイエスさまの時代に使われていた言葉でありますが、ほとんどはヘブル語です。そして新約聖書原典はギリシャ語によって書かれています。これらのことを見ましても実に不思議に思います。ヘブル語は詩とか文学を表すのにとてもよい言葉です。例えばわたしたちが「あなたは顔色が悪いですよ」というと、それは顔色が青いとか赤いとかということではなくて、「健康が少し損なわれていませんか」あるいは「何か心の問題がありますか」ということに通じます。ヘブル語におきましても顔色が悪いというのは顔の色のことではなくて、顔にそういう現象を起こしてくるもとのことを指す言葉なのです。おもしろいことにヘブル語には時制(過去、現在、未来)がないのです。ことが「完結したか」「続いているか」という二つの書き方しかないのです。将来を表すときには、「まだ続いている」ということで表現するのです。なぜかと言いますと、イスラエルの人々は荒野をさすらった民なのです。それこそ雲の柱、火の柱が動けば一緒に動くという生活ですから、時間のことを何分何秒の単位で計ることは必要でなかったのです。むしろ、物事が「続いている」か「終わっている」かが大切だったのです。ですから「脈」という言葉が、そのまま時間を表す言葉に用いられたりしています。ヘブライ人の時間観というのは非常に実存的であって、「わたしがここに存在する」ということが時間というものを規定すると考えたのです。
それに対してギリシャの言葉というのは非常に正確です。日本語ですと過去・現在・未来しかないのですが、ギリシャ語では過去形でも、「完了したか」あるいは「続いているか」、また「瞬間的な過去か」など、いろいろな表現があります。現在形でも、例えば「太陽が東から昇って西に沈む」などというときにはそういうときに用いる決まった現在形があり、現在まだ物事が続いているときには、そういう形の現在形もあるのです。将来も、ただ将来のことを言う、英語で言えば“
will”とか“shall"の用法だけでなくて、「将来終わっているだろうか」「将来も続いているだろうか」という表現もあり、ギリシャ語は動作を表すには実に正確な言葉なのです。わたしは旧約聖書がヘブル語で書かれ、新約聖書がギリシャ語で書かれたことに、神さまの大きな摂理があったことと思うのです。もしも新約聖書がヘブル語で書かれたら、とんでもないことになったと思うのです。例えば「汝の罪赦されたり」とイエスさまが言われるとき、「赦されたり」は完了形でが、それが「いつか分からないけど赦された」ということではとても困るのです。逆に、まだイエスさまが来ていない旧約の時代に、「やがて救い主が来るよ」ということを言うためには、あまり「いついつに来る」と、どこかの誰かみたいに言って、学校へ行くのも止めて山の上で待っていたなどということが起こってはいけませんから、詩的な表現ができるような豊かな言葉であるヘブル語を神さまがお選びになったのだと思うのです。これら原語によって、聖書の言々句々が、聖霊のお導きによって、誤ることなく神さまの啓示を記しているということができるのです。旧約聖書が書かれたヘブル語で旧約の歴史は終わるのですけれど、神さまは歴史をお動かしになって、クロス王の後ペルシャが滅ぼされてアレキサンダー大王というのが起こされます。このアレキサンダー大王が当時の中近東を平定するのです。そして「全ての道がローマに通ず」と言うように、道がローマから世界に放射状に出まして、そして言葉がギリシャ語に平定されまして、イエスさまのお国などはユダヤの田舎の田舎ですが、少しなまりましたが、そちらの方にもギリシャ語が入って行ったということです。道が整って、言葉が整って、福音がローマにドカッと捉えられたら、この福音は力となってローマから全ての道を経て全ての世界に、一つの言葉で伝えられることになるという、歴史的な摂理的な配剤を、実はアレキサンダー大王によって備えられたということを見ることができると思います。そして各著者たちが、そのギリシャ語によって新約聖書を書いたのです。
霊感とは、聖書を書く原著者たちに与えられた、誤りなく、過不足なく、啓示に従って書くことができる働きです。彼らがペンをもって書くわけですが、しかしペンと紙とが触れるときに、「一字一句間違いがなく書くことができるように聖霊が働いた」ということではありません。原著者はさまざまな経験をして、その人の人生がつくられているわけです。そのような原著者が見聞きした神さまのみわざを、自分の人生経験を踏まえて解釈し、記しました。しかしそのような原著者の人生経験も、見たことも聞いたことも解釈も、全部聖霊の管理の下にあって驚くべく守られ、原著者たちは神さまの啓示の全課程を記すことができたのです。ですから聖書は霊感によるところの神のことばであると、わたしたちは信じて来ているわけです。
聖書は神のことばと言うけれども、読んでみると、何か不思議なことがあってピカッと光ったというようなことではありません。わたしたち人間は歴史的存在です。歴史とは時間と空間(場所)によって制限されています。例えば、今わたしたちはここにいます。「今」、これが時間、「ここに」というのは茅ヶ崎教会の会堂にという場所です。時間と空間を除いて、人間というものは存在しないのです。人間はそういう歴史的な存在ですから、神さまがことばをおかけになるときにも、救いということを書くときにも、歴史的な人間が理解できるように、歴史の形で聖書は書いてあるのです。インクを紙の上に垂らすと点ができます。しかし紙を動かせば線になります。このインクを神さまの救いの御心とすれば、神さまが、線のように流れる歴史的な存在である人間に分かりやすく救いを表すために、歴史という形を取られたと理解できるのです。
旧約聖書は、神さまがいかにして神の民イスラエルをお救いになったかという歴史が書いてあります。アブラハムによって、モーセによって、ダビデによって、あるいはイザヤによって、そういう人々によって導かれて来た歴史が旧約聖書です。そして新約聖書は、イエスさまとイエスさまの弟子たちが、どのようにして神さまの救いを経験したか、イエスさまがどのようにしてそれを手渡しなさったかという、教会を場とした救いの歴史なのです。ですから「旧約聖書はイスラエルを場とした救いの歴史であり、新約聖書は教会を場とした救いの歴史である」とまとめることができます。歴史という形でしか、神さまはご自分の御心をお表しになりませんでした。そうでないと人間に分からなかったのです。弘法大師ではありませんが、なにか不思議なことを言ってピカッと光ったから神さまに出会った、というようなことは聖書にはないのです。聖書というのは救いの歴史の形で書かれていますから、その救いの歴史の出来事を、聖霊がもう一度わたしたちの心にリサイタル(再現)して下さることによって、わたしたちの生きた信仰になるのです。
それではそのような救いの歴史は、わたしたちにどのようなことをしてくれるのでしょうか。それを聖書の機能といいます。それはキリスト証言、キリストを証ししているのです。イスラエルの救いの出来事、救いの歴史のどこを取ってみても、「これは救われたことだけれども、やがて救い主がおいでになるときにはもっとすごい救いの出来事が起こるぞ」ということを、旧約聖書は証ししているわけです。そして新約になりますと、イエスさまの弟子たちは、イエスさまによって神さまのわざを拝したわけです。ですからその働きからいうと、イエス・キリストを指さし、証ししているのです。ヨハネによる福音書第5章39節に「この聖書は、わたしについてあかしをするものである」とあるとおりです。熱心なユダヤ人たちは、聖書の中に永遠の命があると思って一所懸命調べたというのです。しかしイエスさまは「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思って一所懸命調べているけれども、聖書はわたしについて証しをしているのであるから、わたしのことを受け入れないのなら、どんなに学問しても聖書は分からない」、こうおしゃった。今日の日本でも大学の学者などが学問的に聖書を学んでいても、イエスさまを見いださないということがあります。
わたしは、そのように学問的にのみ聖書を追求する人々によって、日本の教会がどんなに害されたか知っています。これはドイツでも同じです。イエスさまのことを言っているのだから、イエスさまが自分の救い主であるということを信じなかったなら、絶対に聖書は分からないのです。紫式部や方丈記を読んだりするように、聖書を一つの文献として読むことはできます。けれどもそれでは聖書を本当に読んだことにはならないのです。なぜかと言えば、聖書の働きは、イエス・キリストが救い主であるということを指さしているからです。しかも聖書は66巻ありますが、その全ての著者たちそれぞれが、それぞれの仕方でイエス・キリストを証ししているのです。しかし旧約聖書を見ますと、イエスの「イ」の字も出て来ないわけです。今FEBCというキリスト教ラジオ放送で「キリスト証言としての聖書」というテーマでわたしが話していますが、大きな反響があります。キリストを証ししているというときに、皆違うのです。
わたしは聖書学院の教師として生徒にお話ししますことは、「皆さんは説教をするときに、マタイ伝から話してもルカ伝から話しても創世記からはなしても詩篇から話しても、皆同じだったら、それはおかしいのではないか」と言っています。何故ならば、創世記は創世記の仕方でキリストを指さしているからです。例えばモーセ五書を見るます、創世記は人間の堕落を語り、出エジプト記は人間が救われるということを言います。レビ記は人間がどうやって礼拝するか、民数記は人間がどのような旅路を歩むべきか、申命記は天国への備えをさせます。そうするとイエスの「イ」の字も出て来ませんが、イエスさまが「聖書はわたしについて証しをしているのだ」ということは、モーセの五書においては、罪人が救われて、礼拝して、人生の旅路を歩んで天国へ行くんだということをはっきりと言っているではないかと、イエスさまはおっしゃっているのです。キリスト証言というのは皆違うのです。聖書は66巻の中で皆他者を否定し合い、激しいぶつかり合いをしているのです。これはダイナミズムです。ある人はとびながらイエスさまを指さしたり、ある人は病の底からイエスさまを指さしたり、ある人は歴史の遠くかなたを見ながらイエスさまを指さしたり、ある人はご飯を食べながらイエスさまを指さしたり、いろいろな仕方で指さしているのですけれども、指さしているお方はイエスさま以外の誰でもないのです。
神さまがこの世界にイエスさまを遣わして下さったのですが、なぜ聖書はイエスさまのこと、神さまのことをわたしたちに教えることができるのでしょうか。それは、聖書がここにあって神さまが分かるのではなくて、もともと神さまがおいでになる、その神さまがご自分をその上に著者によって投影させたのです。それを啓示というのです。神さまが自らを顕しなさることです。顕されたから神さまのことが分かるのです。そうすると今度は、顕されたものを読むと、読んだ人はいつまでも文字に縛られていないで、文字が示す向こうにいらっしゃるお方を見るようになるのです。そうすると生ける神さまと出会うことができるのです。渡辺善太博士はこのことを、「聖書はちょうど水の上に写っている月のようだ」と言いました。水の上に写っている月も月です。でも水の上の月を見て「いい月だなあ」などと言いません。それを見て、上を見上げて本物の月を見るのです。ですから聖書がなぜイエスさまを、神さまを証しすることができるか、それは向こうにあるものを写しているからなのです。わたしたちは写されたものを見ることによって、本物である向こうを見ることができるのです。向こうから来るもの、これが啓示です。その啓示が間違いなく聖書に写るようにさせた力、これが霊感です。そしてその霊感された聖書を読むときに、向こう側を指さしている指示性を証し、証言というのです。
聖書はクリスチャンに対する権威という点から言えば、救いと信仰生活の基準、すなわち正典である、と言うことができます。テモテへの第二の手紙第3章15−17節をもう一度ご覧下さい。よく16節だけしか読まれないことがありますが、15節、17節も大切なのです。聖書は霊感された神のことばだと、本質的に言えますし(16節)、内容は救いの歴史ですし、その働き(機能)はキリスト証言ですけれども、更にはわたしたちの信仰と生活の基準なのです。15節にはこうあります。「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与え得る書物であることを知っている」。もう、救いに関しては、聖書以外の助けは何も必要としない、救いに必要な知恵は聖書に全部入っている、そう言うのです。そして16節の後半と17節に「人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」とあります。これはわたしたちが決して見落としてはならない、聖書の働きだと思います。だから救いに関しては、仏教の経典を読むなど全然必要ない、付け加える必要がない、聖書には救いに関して完全な知識が書いてある。イエスさまがわたしたちの身代わりとして死んで下さったということなど、救いの知識としては十分に聖書に書いてあるということです。ですから聖書はわたしたちの信仰生活の権威なのです。ちょうど相撲で言えば土俵です。クリスチャン生活の土俵を決めるのは聖書です。ですからそういう意味におきまして、わたしたちの生活の基準にもなるのです。そして更に、救いの知恵だけを与えるのではなくて、わたしたちをクリスチャンとして成長させるというのです。わたしたちを、いつでも神さまの恵みに完全に至らしめて下さるのはみことばです。
16節の後半では「人を教え、戒め、正しくし、義に導く」とありますが、聖書はわたしたちを教えて下さいます。しかしそればかりではありません、「戒める」のです。「それはやってはだめだ」と言うのです。何かこれは神の御心ではないのではないか、みことばに戒められる。聖書に叱られた経験のある人は幸いです。ひっぱたかれ、目を覚まされる経験がわたしたちには必要です。
そして「正しく導く」のです。これは「矯正」とも訳される言葉です。分からなければ痛い目に遭うということも、ないわけではないのです。詩篇の中には「あなたがたはうさぎうま(ろばのこと)のごとくなるなかれ」とありますが、ろばはにぶいからたたかれないと分からないのです。そのようにならないでみことばにいつも聞き従うようになれ、そう言うのです。このように聖書を、まさに生ける神ご自身のことばとして畏敬の念をもって聞き従うとき、わたしたちの信仰は間違いなく成長致します。そして間違いなくそういう人は祝福を受けます。しかしそのようなことを避けて通る人は、恵みも避けて通ってしまうでしょう。わたしは、聖書はそのようにわたしたちが厳密に取り組むように、神さまから与えられた祝福の源だと思っています。ですから聖書は権威です。今は、権威なんていうと嫌われます。でも従うべきものというのはあるのです。
わたしたちの日本ホーリネス教団の信仰告白にも「旧新約聖書は霊感によって書かれた神のことばである」と告白されています。そして「聖書はわたしたちの救いと信仰生活の基準である」ということが言われておりますから、ホーリネス信仰は、ホーリネス、きよめを言う前に、「聖書は神のことばである」という信仰が土台としてあるのです。生ける神にどこで出会うかと言ったら、わたしたちは、聖書によって聖霊がお語り下さることを聞いて、砕かれてそれを受け取ることによって、と言うのです。そして生ける神に出会うことができるとういう驚くべき救いの内容を、この世界においてわたしたちは経験することができるわけであります。
以上のようにしてわたしたちに手渡された聖書を、わたしたちはどのように解釈したらいいのでしょうか。聖書解釈は大切です。聖書は解釈する必要があります。そのときに、聖書解釈学などのいろいろな学問の手続きがないわけではありませんが、わたしたちが心砕かれて神さまを求めて行きますときに、聖霊がわたしたちの心に感動を与えて下さって聖書が分かるようにしてくれます。
ところが、その働きのことは霊感とは言わないのです。カリスマ派の人々は、自分たちもパウロやヨハネと同じ霊感を受けたというのです。セヴンスデイ・アドベンティストはE・G・ホワイトという人から始まりましたが、この人も「わたしはヨハネやパウロと同じ霊感を受けました」といい、霊感というものに区別がありません。プロテスタンティズムのわたしたちにとりまして、わたしたちが聖書を読むときに働かれる聖霊はどういう働きをして下さると信じているかと言いますと、「照明(イルミネーション)」と言い霊感とは区別します。これは聖書の読者に働く聖霊の働きです。
わたしたちは良い注解書(米田豊著「旧約聖書注解」、「新聖書注解」)を読むことも大切です。注解書からいろいろなことを教わります。しかし聖書を読むときに一番大切なことは、「教わる」ところにに止まっていないで、もう一度聖書を開いてみことばの前に自分を立たせることです。聖書を開いてみましょう。おそらく、聖書解釈の一番大切な態度はこれだと思います。詩篇第119篇130節です。「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」。これはわたしたちが表面的に読みますと、「『み言葉が開けると光を放つ』。ああそうかやっぱり自分の知恵だけじゃいけないんだな。聖書を開くと光が与えられて、そして道が分かってゆくのだな」と、浅い読み方をする人はこのように読みます。でもここにはそのようには書いていません。ここには「“み言葉が”開けると」と書いてあります。みことばというのは自分の方から自分を開いてくるのです。しかしどうしたら「み言葉が開け」て「光を放って」行くかと言いますと、「“無学な者”に知恵を与え」るのです。博士号を取ったり、聖書の専門家になる者に知恵を与えるとは書いてない、「無学な者に知恵を与えます」と書いてあるのです。そしてこの「無学な者」というのは「まるで学んだことがないかのごとくに、学んだものを一切捨て去って白紙になってみことばの前に立つ、そのような人のことなのです。
そのときに不思議なことに聖書は自分の方から自分を開くのです。このところには「開けると」と副詞句で書いてありますが、英語のある訳の聖書を見ますと「
The entrance of the Word(みことばの入り口は)」と書いてあります。入り口から中に入ってゆくわけですが、中は広い神さまの世界で、神さまの御旨ということで満ちている世界です。その入り口になるのは何か、「みことばだ!」と言うのです。「み言葉が開ける」ということはすごいことなのです。わたしたちはどこに行って神さまの素晴らしさ、深さを知るのかというと、神さまの世界の入り口であるみことばです。それは、どんなに学んでも、学んだことがないかのごとくに、自分の学んだことを全部括弧の中に入れて、学んだことのない白紙な者として前に出てゆくときに、みことばは光を放つのです。「光を放つ」という口語訳は思い切った訳で、この語のヘブル語を直訳しますと「わきまえを与える」となり、もともとは「二つのものの中のどちらかを選択させる」という意味になります。みことばが開けてくると、みことばの光は「そう、それだよ」ということをわたしたちにに示して下さるのです。だからそのときには兜を脱いで、全面的にみことばに従う必要があります。渡辺善太博士は、この詩篇第119篇130節のみことばから、彼の聖書解釈学を出発させたのです。わたしがいつも思うことは、みことばによって自分が扱われていることを語るときに、必ず人を動かすことができるということです。講釈師が話すようなことをどんなに真実そうに語っても、聞く人の頭の上を通ってゆくのです。でも説教者が本当にそうだなとみことばから教えられてことを語ると、注解をつけなくても聞いている方にそのことが分かって行くのです。小島伊助という先生がよく言われていたことです。献身ということを説明するときに、聖書辞典を開いて「献身とは神に身を捧げることである」と説明することはできる。しかし本当に献身していない説教者が献身のことをいくら説明しても伝わらない、
聞いている方の頭の上を通り過ぎてしまう。でも本当に献身している人が献身ということを語ると相手に分かる。そう言うのです。これは実存的な世界のことですが、神の世界のことというのは、聖霊によって「わたしはそうされた」ということを本当に感じ取ったら、あなたが言う言葉が短い簡単なことであっても、人を動かす力があるということだと思います。
聖書解釈の原理ということは詩篇第119篇130節でよろしいと思いますが、次に教会の歴史における聖書ということをお話し致します。レジュメにこのように書きました。「教会は2千年の間、聖書を読み続けて来た。この間に起こったニカヤ(325年)・カルケドン(451年)会議の決定と、宗教改革者が聖書を教会の中心に復権させた努力は非常に重要である。今日と同じように、古カトリック教会や宗教改革の時代にも様々な問題に対して、聖書によっていかにそれらと対決したかが考えられ、この対決の仕方は本質的に現在の聖書を読む者に正しい方向を指示していると言える。この指示が聖書的正統主義の土台となるものである」。ホーリネス信仰ということにおいて、わたしはホーリネスの皆さんにこのことを特に強調したいと思うのです。
学んだことのない者としてみことばの前に立つということを先程言いましたが、これが主観的な経験で終わってしまってはならないのです。先程言った経験は、主体的ではあるけれども主観的(自分だけ当てはまって他の人に当てはまらない)ではないのです。そういう聖書の読み方を、教会は2千年の間して来たのです。
教会が一番はじめに出会った困難は、異端の問題です。教会は、イエスさまの弟子たちの原始教会から始まって、初代教会を通って、教会教父と言われる古カトリック時代を通って来ました。ところがそのうちに「イエスさまは本当に肉体をとって来たのか」「イエスさまは神ではないのではないか」など、いろいろ言われ始めまして、更には「イエス・キリストという方は本当にいたのかいないのか」「イエスは人間だったのか神だったのか」など、3世紀の終わり頃には非常に混乱して来ました。そのときローマのコンスタンチン大帝が国を平定して、キリスト教を国教として受け入れるわけです。そのことが学問的に良かったとか悪かったとか今日議論がありますが、それはともかくとしまして、教会の中に起こっているいろいろな問題を、はじめて解決しようとしました。4世紀、5世紀になりますと異端が出て来ました。いろいろな問題が出て来たのですが、最初の問題が「イエスは神ではないのではないか」という問題です。ですから19世紀の合理主義なども、皆この時代の考え方に影響されて出て来たものと言えます。「イエスは偉大なる教師の一人であって、神ではない。神の子ではあるが、神ではない」という言い方がなされ、問題になりました。そのときコンスタンチン大帝がニカヤ会議を開きました。この会議において、キリスト教が迫害されていた中を通って来た聖徒たちが、「イエス・キリストはまことに神のかたちをとった、まことの神であった」と、イエス・キリストの神性ということをはっきり告白したのです。しかしその後で問題となったことは、「イエスは神だということは分かったが、人間ではなかったのではないか」「確かにイエスは神であったのだけれども、神は死ぬことはできないのだから、洗礼のときに神がイエスに臨んで、十字架につくときには神はイエスから離れて天に帰ったのだ」などという人がいたのです。そのような人々に対してヨハネは既に、「イエスが肉体を取って来られたことを拒む者は異端である」と言っておりました。この後カルケドン会議というのが開かれ、「イエス・キリストはまことの神にしてまことの人である」ということが告白されました。神と人が混ざり合っているというのではなくて、「まことに神であると共に、まことに人である」のです。
原始教会の時代に既にそのような問題がありました。使徒行伝第15章にありますが、イエスキリストを救い主として信じて救われる、今のわたしたちにとっては当たり前のことですが、しかし原始教会が伝道している間に最初にクリスチャンになったのはユダヤ人ですから、そのユダヤ人の人々は、「異邦人がただイエスさまを信じて救われるなんて虫が良すぎる。俺たちは神の民だ、割礼を受けて神さまの民になったんだから、おれたちが救われるのは当たり前だ」、とこう言ったのです。しかしパウロは「そうではない」と言ったのです。
「わたしが伝道した結果ユダヤ人でない人が救われて神さまに恵まれているよ」
と言ったのです。第1回エルサレム会議というのが開かれ、あそこでキリスト教がキリスト教になるかならないかという剣が峰を、キリスト教は通るのです。
パウロやぺテロたちの主張によって、エルサレムの主教ヤコブも、「信仰によってだけ人は救われるのだ、それがキリスト教だ」ということを受け止め、その信仰ががここで明確になったのです。それが使徒行伝第15章に記されています。
それから、「そのイエス・キリストとは何だ」ということに対し、「神だ」ということが決定され(ニカヤ会議)、更に「神であって人であり、混じり合うことなく分離されることのない方」(神人両性)ということが決定されました(カルケドン会議)。これは、イエス・キリストが聖書で言われているようなお方になるかならないかという、大きなキリスト教の出来事なのです。もしここで打ち砕かれていたら、キリスト教は今日なくなっていたでしょう。それほど困った問題だったのです。しかしカール・バルトという神学者は、「これらは教会会議で決まったことではある。しかしこれは聖霊が教会会議にお迫りになって、イエスさまという方はそういう方だということをつかませたのだ」というようなことを言うわけですが、まさにその通りだと思います。そして大変興味深いことに、この時代に聖書正典結集ということが行われたのです。新約聖書27巻旧約聖書39巻が、この時代に一つの正典として認められたのです。そういう大きな時代なのです。
その後このまま教会の歴史は進んだかと言いますと、そうではありませんでした。16世紀頃の教会が非常に堕落しまして、免罪符を売って、免罪符を買っ
た人は天国に行けるなどと言い出したのです。このようにキリスト教が迷信に陥った時代があるのです。そのとき、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンが立ち上がって、「聖書に聞け。聖書はそんなことは言っていない」ということを主張し、宗教改革が起こりました。マルティン・ルターもジャン・カルヴァンも「信仰によってだけわたしたちは義とされる」という、第1回エルサレム会議の決議事項を、もう一度掘り起こしたのです。当時のカトリック教会は7つの礼典に加えて、ついにはそれだけでも足りなくなってお札を売り出したのです。お札を買ったら天国に行けると言ったのです。そのような中でマルティン・ルターは「人が義とされるのは掟の行いによってではない。お金を払って免罪符を買うことによってではない」と言って、当時のカトリック教会を向こうにして、みことばに命を懸けて立ち上がったのです。
キリスト教はニカヤ・カルケドン会議と宗教改革という、二つの大きなふるいを通りました。現代のわたしたちはこの流れの中に立っているのです。これらの時代の聖徒たちは、皆その時代と戦ったのです。ですからわたしたちが聖書的であるということは、現代からいきなり聖書に帰るということではありません。それをするのが実存主義の方々なのです。彼らは歴史を無視して、「今ここにいるわたしが直接聖書を聞くだけでいい」と言います。そうでないことも無いのですが、それは間違った言い方です。教会の2千年の歴史を正しく踏まえたうえで聖書に帰らなければならないのです。何故ならば、これらの時代というのは、まさに現代が先行き不透明な大きな問題を抱え、教会はどうなってしまうのか分からないような時代と同じなのです。このような中でわたしたちは、聖書はどのようにわたしたちに語られるのか、命があるか、力があるか、時代に苦悩しながらそのことを4、5世紀に既にやったのはニカヤ・カルケドン会議なんです。そしてまさにそのことをルネッサンスの時代にさかのぼって戦ったのが、宗教改革者たちなのです。だから彼らがそれらの時代にどうして戦うことができたのか、聖書を神のことばとして読んで、教会の中心に復権させることによって、教会を新しく真の教会たらしめたのです。現代もそうです。
とするならば、わたしたちは宗教改革者が聖書をどう読んだかによく聞く必要があるのです。もちろんわたしたちはルター、カルヴァンだけではありません。
ある意味ではルター、カルヴァンが言ったことを、本当の意味で深化させたのはウェスレーだと思っています。だからわたしたちはこの伝統に聞くべきです。
そして更にこのニカヤ・カルケドンの教会会議の信仰告白、「イエス・キリストはまことの神であり、まことの人である」との信仰に立って聖書を読むときに、わたしたちもまたこの時代の中でどのようにしたら良いのかということが分かって来るのです。キリスト教会はこの2千年の間、大きな二つのふるいにかけられて、今日これはまことの宗教である、救いを与えることのできる宗教であると、確認され続けて来ました。現代のわたしたちは、宗教改革で戦った改革者の教えに学びながら、ニカヤ・カルケドンの教会会議の信仰に生きながら、イエスさまの教えに帰って行くということが、わたしたちには大切なのです。こういう伝統を大切にしながら来ているのが、聖書的保守主義という立場です。これは今日の福音主義というものの土台です。
聖書は神のことばであり、救いの歴史であり、キリスト証言であり、そして正典であると信じる信仰に立つというのことは、教会の2千年の厚さの信仰に、わたしたちが加わるということなのです。